無主語文体と主体性 (T: 2026-01-17)
デカルトは
、若くして、「われ、仮面をかぶりて歩みゆく」("Larvatus prodeo")という行動原理を確立していた。ここには、パーソナリティとは仮面にほかならないという見栄と装いの「近代」の原理が示されている。自我とは仮面であり、それを適当につけ替えるのが、「近代生活」である。これは、いま誰もが日常で経験している詐欺だらけの世界の元にある。
言語表現の側から言うと、デカルトは、ラテン語のような「無主語言語」には、自己顕示的な自我を隠す機能がある一方、どんな「主語」でも「暫定的」な仮面として付け替えられるということを知っていた。
デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」の原文 Cogito ergo sum.には主語がない。ラテン語は、主語を明示しないが、ちゃんと主語を隠している。 彼は、学問の世界ではラテン語という「空主語言語」を使いながら、日常的に は「有主語言語」のフランス語を使って生きていた。
パスカルも、『パンセ』では、「私は」を明示するフランス語で書かれているが、そもそもこの本は、彼のメモ的断章が死後にまとめられたものだ。だから、その「私は」は、彼の質素な生活のなかの「私は」であって、「傭兵」でもあったデカルトの生臭い「俺は」ではなかった。
パスカルにとっては、「〈私が〉考える」のでは、思考を自我にのみ背負わせてしまうので「許せなかった」。「一本の葦に過ぎない」人間が存在にでしゃばるのは、存在の冒涜だった。
パスカルは歯痛に悩まされたというが、我慢して、決して「俺は痛いんだ!」とは叫ばなかっただろう。パスカルは、あらゆることにおいて、「私が」「俺は」という自己顕示的な自我に距離を取ろうとしたので、彼の歯痛は、彼が耐えれば耐えるほど、スキゾ的な内的分裂を高め、彼の思考の奥行を深くさせた。
デカルトなら、歯痛なら抜けばいいじゃないかと言っただろう。歯が痛くても、平静を装い、「歯痛なんて俺は平気だ」と公言したにちがいない。
その意味で、デカルトの「コギト」(Cogito)は、「われ思う」であるよりも、「おれ騙す」(Fraudo) であり、ラテン語では、Fraudo, ergo sum.「おれ騙す、ゆえに俺あり」と言うべきだったのだ。
概要 (G: 2025-12-24)
『チッタ・レモータ』は
、近未来を描いた身の毛もよだつような青写真であり、安楽の名の下に「自己」が真っ先に消去される世界である。主人公を主に無主語として描くことで、物語はまさに「デジタル遁世」(digital retreat) を体現している。高解像度の機械に棲む幽霊の視点から語られる物語である。恐怖の根源は「欺瞞」(主人公がVR実験のために誘拐されたサンプルである可能性)にあるのではなく、主人公がそれに身を譲りわたしてしまうことにある。
この小説は、デカルトの古典的な定理(コギト・エルゴ・スム)を見事に再定義している。「ここでは、人は存在するために思考するのではない。むしろ、人は欺かれており、ゆえに存在するのだ。人間の魂が、メディアに媒介された完全な孤立という願望をついに実現させたとき、魂に何が起こるのかを探求した、鮮やかでありながらも不毛で、そして深く不安を掻き立てる作品である。